こんにちは、中村です。
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今日は、「普通は」という言葉について書きます。
会話の中で、わりと軽く出てくる言葉ですよね。普通はこうだよね。みんなそうでしょ。僕も言います。言ってから、あれ、と思うことがあります。いま言った普通は、誰の普通だったんだろう、と。
週末に開ける一本
ビールで考えてみます。
ある人にとって、ビールは週末のものだとします。金曜の夜、一週間が終わったところで一本開ける。それが何年も続けば、ビールと週末は、その人の中でくっついていきます。
その人が、ビールの広告を考える場に呼ばれたとします。ビールって週末に飲む人が多いですよね。そう言うと思うんです。悪気もなく、ごく自然に。
でもまわりを見わたすと、ずいぶん違います。休みの日に昼から飲む人がいる。試合を見ながら飲む人、友人と集まったときだけ飲む人、まったく飲まない人もいます。
週末のもの、というのは、その人が過ごしてきた時間の中でできあがった感覚でした。世の中の決まりごとではなかったんですね。
気づかないうちにできあがるもの
ややこしいのは、こういう感覚に、覚えた瞬間がないところだと思います。
新しく知ったことなら、いつ知ったかを覚えています。だから違うかもしれないと思える。でも、暮らしの中で少しずつできあがったものは、最初からそこにあったような顔をしています。
だから疑うきっかけがありません。
朝ごはんの話でも同じことが起きる
これは仕事の話にかぎりません。
朝ごはんはパンだと思っている人と、ごはんだと思っている人がいます。休みの日は出かけるものだと思っている人と、家にいるものだと思っている人がいます。どちらも、その人の中では当たり前です。
どちらも、その人の中では長く続いてきた形です。人と話していて、えっ、そうなの、と驚く。あのときに初めて、自分の側の当たり前が見えます。
違うほうが自然
考えてみれば、当たり前のことでした。
一人ひとり、育った家が違います。住んでいる町も、選んだ仕事も、今おかれている状況も違う。大事にしているものも、困っていることも違います。
そこまで違う人たちが、同じものを同じように感じているほうが、めずらしいはずです。
幅を持って考えてみる
だから、普通はこうだ、と決めるかわりに、こういう人もいるかもしれないと思ってみる。それだけで、目の前の人の見え方が少し変わります。
手間をかけたところが、そのまま喜ばれるとはかぎりません。まったく意識していなかったところを、ありがとうと言われることがあります。逆に、これは伝わるだろうと思っていたことが、そこまででもなかったりする。
そういうとき、自分の物差しは自分のものでしかないんだな、と思い直します。
過ごしてきた時間でできている
自分にとっての当たり前は、その人が過ごしてきた時間でできています。人が変われば、中身も変わる。自分では気にも留めていなかったことを喜ぶ人がいます。
普通は、と言いかけたら、その手前で少しだけ止まってみる。となりの人の普通は、たぶん少し違います。



